ログインその声が終わるより早く、別の秘書が封筒を持って入ってきた。「白鳥家側が、記者向けの追加資料を配布しました」 封筒の表には、白鳥家の家紋が押されている。開く前から、紙の向こうで父と瀬里奈さんがこちらを見ている気がした。 提出手続きを終えて戻った相沢が、一枚目を読み上げる。「白鳥澪氏は、鷹宮家の利害に誘導され、家族を告発している可能性がある――」 続く行には、莉々花の名前で短いコメントが添えられていた。お姉様を信じたい。でも、怖い。どうか家族に戻ってきて。 吐き気がした。戻る場所を壊した人たちほど、戻ってこいという言葉を使う。 征臣の目が一瞬で冷えた。「発信元は調べる」「必要なものは揃える。出すかどうかは、あとで話そう」 その「あとで」に、ようやく息が混じった。 右手が、空になった左手を探した。 そこにはもう指輪はない。 征臣は近づかなかった。私も近づいてほしいのか分からなかった。答えが出ないまま、同じ部屋にいた。 代わりに、さっき書いたばかりの自分の名前の感触が残っていた。 部屋を出ようとした相沢が、廊下で足を止めた。「白鳥家から、もう一通届いています」 封筒は薄かった。中身を見なくても、嫌な軽さがある。 同意撤回書。 申立人欄には、私の名前が印字されていた。けれど署名の筆跡は、私のものではない。丸く、少し甘い線。莉々花が昔、私のノートに勝手に名前を書いた時の癖が残っていた。「……まだ、私の名前を使うつもりなんですね」 怒りが、静かに息をした。 征臣は何も奪わなかった。ただ、証拠袋を一枚、私の前に置いた。「証拠袋に入れる。……俺が触らない方がいいか」「はい。私がやります」 私はその紙を、自分の手で袋に入れた。 宮野真理は、思っていたより小さな人だった。 療養施設で会ったときより背中が丸く、廊下の照明の下に立つ姿は、紙の端のように頼りない。薄い灰色のコートを胸の前で合わせ、片手には古い革の
会議室の端で、黙って立っている。いつもなら場を動かす人が、今日は場を譲っている。その沈黙が、まだ痛くて、少しありがたかった。 相沢が提出の手続きのため、部屋を出る。 扉の閉まる音が、会議室に残った。空調の風で、机の上の控えがかすかに揺れる。さっき書いたばかりの私の名前が、まだ濡れているように見えた。 征臣は壁際に立ち、口を挟まなかった。その黙り方まで正しく見えて、余計に腹が立った。「何ですか。今度は、どの書類を私に内緒で止めますか」 声が低くなった。目の奥が熱い。怒っているのに、少し泣きそうで、それがまた腹立たしい。 征臣がこちらを見る。「澪」「今は、名前を呼ばないで」「名前を呼ばれると、言えなくなるから」 言い切ると、空になった左手が膝の上で強く握られた。 征臣は一度だけ息を吸い、目を逸らさなかった。「あなたが私を傷つけようとしたんじゃないのは、分かってます。……でも、黙って決められるのは、もう無理です」 征臣の口が動きかけ、閉じた。 その沈黙を待った。 左手には、指輪を外した跡がまだ薄く白い。 征臣は黙った。 謝罪を待っているわけではなかった。「……今、謝らないで。まだ私、終わったことにできないので」 征臣の口が開きかける。「まだ、聞いていて」 征臣は口を閉じた。謝罪の形へ整いかけた言葉が、そこで止まったのが分かった。私は濡れた署名へ視線を戻した。 今は、それでよかった。 机の上のペンを指で押すと、申立書の控えに当たって止まった。「次に止めたくなったら、先に私を呼んでください。勝手に出さないで」 征臣はしばらく黙った。「……分かった。いや、そうする」 返事が早すぎて、かえって不安になる。私は申立書の署名へ目を落とした。「簡単に言わないでください」 征臣は返事をせず、机の上の申立書を見た。私の署名の横には、彼の名前はない。そこを確か
机の上に、契約婚約の指輪を置く。 母の指輪ではない。奪われかけたものではなく、私が一度選んだもの。 だから、返すのではない。 いったん、置く。「婚約を、白紙に戻します」 声は揺れなかった。 机の上で、指輪が照明を細く返した。 征臣の目が指輪に落ちた。 征臣はすぐには何も言わなかった。 止めないのかと、どこかで思った。 止められたら困るくせに、止められないことも痛い。人の心は、本当に面倒くさい。 私は申立書を手に取った。「鷹宮家の婚約者としてではなく、白鳥澪として出ます」 征臣は申立書を見た。「証拠は借ります。話す言葉は、自分で書きます」 すぐには返事がなかった。 征臣は指輪を見たまま、手を伸ばさなかった。「場の手配と警備だけは、させてくれ」 征臣はそこで口を閉じ、私の返事を待った。「そこまでです」「分かった」 私は指輪の横を通り過ぎ、保留印の押された申立書を封筒から抜いた。 指輪は紙の上で小さく光っていた。その向こうには、確かに私が一度選んだ時間が残っていた。 征臣なら、保管先も、手続きも、危険の切り分けもすぐ決められる。けれど彼は、指輪の置き場所を一言も提案しなかった。 用紙の角に、自分の爪の跡がついた。 止めたいはずなのに止めない。その我慢が見えたから、私は指輪から目をそらさずにいられた。 相沢が、何も言わずに新しい用紙を机へ置いた。 保留印のない申立書。まだ誰の判断も重なっていない、白い欄。 私はペンを取った。指輪を外した左手ではなく、火傷の痕が残る右手で。 痛みのおかげで、字だけはまっすぐになった。 私は椅子に座り直した。 左手には、もう指輪がない。 指輪の跡だけが残っている。白い細い輪。失くしたのではなく、自分で外した印。そう思うことにした。 ペンを持つ。 相沢が言った。「提出後は取り下げに手続きが必要になります。本当にこの形でよろしい
私は保留印の押された申立書を、机の上に置いた。紙は軽い。軽いのに、置いた音だけが妙に重かった。「白鳥家でも、そうでした」 声は落ち着いていた。「澪にはまだ早いって、何度も言われました。家のため、お母様のため、私のためって」 征臣の顔から、色が少し消えた。「……同じことをした」「悪意があったとは思ってません」 声が少し掠れた。「でも、知らなかった。私の名前の紙なのに」 守ろうとしたのだと思う。そこは疑っていない。 でも、申立書が止まっていたのを見た瞬間、父の机が浮かんだ。 私は左手を見た。 契約婚約の指輪が、照明を細く返している。母の指輪とは違う。これは征臣が差し出した選択の証だった。 だからこそ、今は重い。「『君のためだ』と言われると、また何も言うなと言われている気がするんです」 会議室の空気が止まった。 相沢が息を呑んだ音が、小さく聞こえる。 征臣は動かなかった。 言い返せたはずだ。危険だった。最善だった。時間がなかった。いくらでも言葉はある。 でも、彼はどれも選ばなかった。「悪かった」 短い謝罪だった。 その短さに、不意に泣きそうになる。 私は泣かずに、指輪へ触れた。 会議室の窓ガラスに、自分の顔が薄く映っていた。怒っている顔だった。白鳥家では、すぐに直せと言われた顔。けれど今は、直したくなかった。「次は……止める前に、私を呼んでください」「止める前に?」「はい。私が嫌だと言えるところで、話してください」 征臣は一拍置いて、息を逃がした。「……分かった、とはまだ言えない」 分かったふりで話を閉じないことだけは、伝わった。「でも、次は君のいないところで決めない」 相沢は視線を落とした。征臣も、それ以上は言葉を重ねなかった。 私は指輪に触れた。金属の下で、皮膚が少し熱を持っている。
テーブルの端で、相沢の端末が震えた。彼は画面を見るなり、ほんのわずかに眉を動かした。弁護士が表情を消し損ねる時は、だいたい良くない知らせが来た時だ。 相沢の説明は筋が通っていた。危険を減らし、報道を抑え、白鳥家の出方を見る。聞けば聞くほど正しい。正しいのに、胃のあたりだけがむかついた。「東都経済新聞の関連アカウントが、先ほどの記事を再掲しています」 相沢が言った。「見出しは」 聞く前に、分かっていた気がする。「鷹宮副社長、婚約破棄直後の令嬢を私邸に保護。白鳥家側は遺産持ち出しを主張、です」 保護。遺産持ち出し。画面の上では、私はまた別の女になっていた。 だから、余計に嫌だった。 父もよく「お前のためだ」と言った。 その後に来る話を、私はだいたい知っていた。 黙れ。待て。譲れ。「澪、無理に言葉にしなくていい」 征臣が呼んだ。 名前を呼ばれた瞬間、喉が詰まった。 泣きたくない、と思ったら余計に目の奥が熱くなった。 私は椅子から立った。 膝が少し震えた。机の下で隠れていた震えが、立ったせいで見えてしまう。「申立書を見せてください」 相沢が封筒を出した。 白い封筒の角に、赤い小さな印が押されている。 保留。 母の内容証明にも、届かなかった印があった。 父の机で止まった紙。 鷹宮の会議室で止まった紙。 場所は違うのに、私の声が止められる感触だけが似ていた。 私は封筒を開けた。 申立人欄には、昨夜の自分の字がある。 白鳥澪。 少し右に傾いた、強がった字。 その上に、誰かの判断で保留印が重なっていた。 息が浅くなる。「あの場を、もう一度やらせたくなかった」 征臣が言った。 声は低い。けれど、いつもの低さではない。どこか焦っていた。 私は顔を上げた。「だから、黙って止めた」 征臣の指が袖口から離れた。 言っていることは正しかっ
翌朝、会議室の空気は昨日より乾いていた。 机の上には、私が夜中までかけて作った証拠目録が置かれている。付箋の色は黄色。項目番号は母の帳簿と揃えた。手書きの部分は少ない。震えた字を、あまり人に見せたくなかった。 相沢は書類を読み、数か所に鉛筆で印をつけた。「内容は十分です。ただ、公開聴聞そのものを止める選択肢もあります」 顔を上げた。 相沢ではなく、征臣を見た。 征臣は窓際に立ち、片方の袖口を何度も押さえていた。 その癖を、もう覚えてしまった。言いにくいことがあるときの指だ。「どういう意味ですか」 相沢が答える前に、征臣が口を開いた。「白鳥家側の資料は粗い。公開聴聞に出なくても、記事の撤回と差し止めはできる」「それで、私の申立ては?」「……君を、また人前に立たせたくない」 その言葉で、胸の奥がひやりとした。さっきまで開いていた扉が、目の前で閉まる感じがした。 征臣が私を傷つけたいわけじゃない。たぶん逆だ。だから、何を怒ればいいのか分からなくなる。 君。 その呼び方は、いつもなら胸の内側に残る。今は違った。 私は証拠目録を手前へ引いた。「その申立書、私の名前ですよね」 征臣の喉が動いた。「止める前に、私に言う話じゃないんですか」 相沢が気まずそうに資料を閉じる。 その仕草で、嫌な予感がした。「相沢さん」 声が低くなった。「私の申立書は、もう提出されていますか」 相沢の指が止まった。 一拍。 その一拍で、答えは十分だった。「安全確認のため、提出を保留しています」 保留。赤い二文字を見て、母の書面を思い出した。 父の机で止まった紙。理由は違うのに、嫌な感じだけが似ている。 安全のため、慎重に、時期を見て。聞き慣れた言葉が並ぶほど、指先が冷えた。 紙の上に置いた手から、温度が抜けた。 私は征臣を見た。 彼は言い訳をしなかった。け